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我が心と身体が捉えた美について

カテゴリ: 本のレビュー

騎士団長殺し 描いてみた 村上春樹 イラスト 絵

村上春樹氏の長編小説『騎士団長殺し』読了後に
作中に登場する鍵となる絵画のイメージ・イラストを即興で描いてみました。

メモ帳(実は日めくりカレンダーの裏側)が正方形だったために
「顔なが」の描かれている位置が原作と異なっていたり、
ドンナ・アンナの手が口元になかったりと色々不正確ですが、
作品を読んだ際に自分の頭の中に浮かんでいた構図はこんな感じでした。

読者の皆さまの想像の中にはどのような『騎士団長殺し』があるのでしょうか?

この作品をお読みになった方一人一人の頭の中に浮かぶ絵画が
それぞれまったく異なっているというのはまさに小説の面白さでもありますね。




少し前に読み終わっていたのですが、なかなか言葉が見つからず
レビューを書き出せずにいました。
是非ひとりでも多くの方に読んでいただきたいお勧めの本なのですが、
重いテーマ故にそれをどういう言葉で表現すべきか考えてしまいました。
(今も考え続けています。)

この本の中に記されているのは、
チェルノブイリ原発事故に巻き込まれてしまった人々の言葉です。

普段の日常が予期せぬ未曽有の人災によって突然に変容してしまった人々の声を
著者スベトラーナ・アレクシエービッチ(本年度ノーベル文学賞を受賞)が取材し、
まとめています。

取材に応じた人々の多くは名もなき市井の人々ですから、饒舌とは言えません。
取材に訪れた著者を興味本位と非難する人がいれば、
話したくないことに関してはきっぱりと返答を拒否する姿勢を貫く人もいます。

ところが、その思い思いの心情を吐露した「声」が
著者というフィルターを通してひとつに集められると、
事故が発生した当時の惨状やその後の彼等の人生がどう変わってしまったのかが
読む者の目の前に立ち現れ、深く心をえぐるのです。

本書はまさに題名にもあるとおり、鎮魂への「祈り」です。
しかも、それは副題にあるとおり、未来の物語でもあります。
大地にまき散らされた放射性物質は
この惑星に今生きる我々も含めたすべての生命が死滅した後もなお残留し続け、
環境を汚染し、生まれ来る新たな生命を蝕み続けるものだからです。

読後、特に印象に残っているのは、
被爆した夫を献身的に看護した二人の女性達の言葉です。

致死量を遥かに上回る放射線を浴びた夫達は生きる「原子炉」と化し、
さらに日に日に肉体が崩れ、「怪物(本文ママ)」と化していく……。
彼女達は医師や看護師が制止するのも聞かず、自身の被爆するリスクを顧みず、
病室へと忍び込み、最愛の人の壊れゆく肉体に触れ、添い寝し、キスを交わします。

彼女達が語るのは死についてであると同時に極限の愛についてでもあります。
もしも自分が同じような状況に陥ったなら、
果たして以前と少しも変わることなくその人に触れ、
愛することができるだろうか……。

私に突きつけられた「愛すること」に対する重い問いです。
綺麗事ではいくらでも愛や思いやりを語ることはできます。
しかし、いざこのような事態に遭遇したとき、
私は自らの身を擲って、愛する人を慈しむことができるかというと……
その自信はありません。

さらに恐ろしいことに、
これは単なる想像で終始するフィクションではなく、
これから我々の身に実際に起こりうる現実の問題でもあります。

ご存知のように、
2011年3月11日に発生した東日本大震災に伴う福島原発の事故により、
我々は生と死についての問いを突きつけられました。

そして、その答えは先送りにされたまま、
我々は相変わらず大量の電力を消費し、
震災前と少しも変わらないエネルギー消費型の社会生活を続けています。

我々は近い将来にその報いを受けることになるのではないかという予感が私にはあります。

原子力ではないローリスクかつクリーンな新たなエネルギー源の開発も確かに急務ですが、
我々がまず実践すべきなのは際限のない欲望に歯止めをかけ、
足るを知る、所謂「知足」の精神を養うことではないでしょうか。

本文中にもあったとおり、
放射性物質は我々の目には見えないため、
一見、今までと何ら変わらない深緑の森や澄んだ川が広がっている。
しかし、線量計を取り出すと
針が振り切れるほどの高濃度の放射性物質に汚染されていることがわかるという。

我々は核エネルギーを放棄しない限り、
不可視の猛毒に侵されるリスクに常に怯えながら、
現在、そして未来を生きていかなくてはならないわけです。

本書に興味を抱かれた方は是非。
 

チェルノブイリの祈り――未来の物語 (岩波現代文庫)
スベトラーナ・アレクシエービッチ
岩波書店
2011-06-17


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