映画『サウルの息子』 ポスター ヒューマントラスト 有楽町


ヒューマントラストシネマ有楽町にて鑑賞致しました。

以下、本編のネタばれを含みますので、
まだご覧になっていない方はご注意ください。


冒頭で「ゾンダーコマンド」についての説明があります。
「ゾンダーコマンド」とは、ナチスの強制収容所で主にガス室送りとなった囚人達の遺体の処理や金品の回収を任された特殊部隊です。囚人達の中から選抜され、彼等自身もやがて殺される運命にあります。

最初のシーンはいきなりピンボケした映像から幕を開けます。
木立の緑がぼんやりと見え、どこかの道を映しているらしい映像と無音の状態が少し長めに続きます。
観ている側は当然「おや?」と思い、やがて居心地が悪くなり始めます。

すると足音とともに画面の奥から一人の男が歩いてきて、
カメラは男の顔にフォーカスします。

その瞬間からまるでカメラがその男、サウルに憑依したがごとく
本編ラスト近くまで彼の正面と背後をひたすら中心に据えて映し続けることになります。

それは主人公サウル・アウスランダー(=Auslanderとはドイツ語で異国人の意味。彼の素性は明かされることなく謎のままなので、まさにその名が示すとおりと言えます)の視点であり、また我々の視点でもあります。

周囲の光景はぼやけ、サウルの動きに合わせてカメラがブレることもしばしばあり、
サウルの視界以上には画面の広がりもないために、彼の視界の外で何が起きているのか鑑賞者が考え、理解しながら視聴せざるを得ません。
観ているうちにかなりのストレスを感じると思います。
しかし、これこそが監督の狙いなわけですね。

静寂とピンボケから始まった映像はサウルという1人の男の肉体を得て、
途端に喧騒の中に観る者を放り込みます。

ドイツ語を中心とした東欧の言語での人々の嘆きが飛び交い、足音が響き、
その周りを牧羊犬のごとく目付き鋭く見張り、動き回るサウル。

やがて、
人々は身包みを剥がされ、「シャワー室」へと追い立てられます。
泣き叫ぶ人々の声。
人々が脱いで吊していった衣服から慣れた手つきで金品を漁り、
奪い取っていくサウルをはじめとするゾンダーコマンド達。
重い音とともに閉じられる鉄の扉。
その扉の傍に立ち、うつむくサウル。
やがて扉の奥で悲鳴が絶叫に変わり、必死に扉を叩く音が虚しく響き渡り、
毒ガスが噴射されたことが分かります。

まるでサウルが目を閉じて意識を切ったがごとくのしばしの暗転の後、
カメラはガス室内でゴミの山のように積み上がった遺体を処理し、
黙々と床を磨くサウルの背中を映し続けます。

サウルにピントが合っているために周囲はぼんやりとしか映りませんが、それがかえって観る者の想像を掻き立て、さらに床を磨く生々しい音に慄然とさせられます。まさに人間が地上に具現化した地獄の様相。

その作業の最中にサウルがふと背後を振り返る。
今までピンぼけだった視界が急に焦点を結びます。
毒ガスで死にきれなかった一人の少年が苦しそうに喘いでいます。
やがて、ナチスの医師が駆けつけ、気道を塞いで少年の息の根を止め、
「解剖しろ」の一言を残してその場を去ります。

サウルはその少年が自らの「息子」であることに気がつきます。

そこからはまるで気がふれたがごとく、
「息子」をユダヤ式の葬儀で弔いたいと収容所内をラビ(ユダヤ教の聖職者)を探して駆け回るサウルの姿が映し続けられます。

それと並行して彼の周囲では、ゾンダーコマンド達の反乱計画が進行していきます。
サウルもそのメンバーの一人にはなっているのですが、「息子」の葬儀にこだわるあまり上の空です。

仲間の女性がくすねた火薬を受け取りに行っても、ラビを探すのに忙しく、どこかに落としてきてしまう始末。

解剖役のユダヤ人医師に頼み込んで解剖を免れた「息子」の遺体を自らの寝床に運び込むサウルに仲間達は呆れ、そのうちの一人からは「お前には息子などいない。死者を持ち込むな」と非難されます。

やがてゾンダーコマンド達による反乱が勃発しても、
サウルは戦闘に加わるわけではなく、
ただひたすらに銃弾の飛び交う中を
「息子」の遺体を抱えて逃げ続けます。

最初のうち、
私はサウルが実の息子を弔うために奔走しているのだとばかり思って観ていました。

しかし、自らの命の危険も省みずに「息子」の葬儀のために
無謀ともいえる行動を繰り返すサウルの姿を見続けているうちに、
献身的な父親というよりは、
実在しない「息子」に執着する精神的に病んでしまった男に思えてきました。

遺体の少年は彼の息子などではなく、
そもそも「息子」など実は存在しないのではないかという
疑念が生じてきます。

では、サウルにとっての「息子」とは何なのか?
死んだ「息子」を弔うという行為にどういう意味がこめられているのか?

収容所へと送られてくる人間達を次々とガス室へ送り、金品を収奪し、
その遺体を「部品」と称してゴミのように焼却し、その灰をシャベルで河に撒くということが
彼に課せられた日常です。
その極限状態にあって、
自らの信仰に基づいた儀式で死者を一人の人間として弔うということを
彼の心が本能的に欲していたということではないかと私は考えます。

つまり、
サウルにとっての「息子」とは、
自身が心を持った人間であることを見失わないための
「人間性の象徴」だったのではないでしょうか。

サウルは結局、「息子」の死を弔うことを果たせぬまま
反乱を起こしたゾンダーコマンド達と逃げ続け、
河を渡った際に溺れかけ、
これまで頑なに手放すことのなかった「息子」を
流してしまいます。

憔悴しきって仲間たちと森の中を歩き続け、
ようやく辿り着いた小屋で休憩をとります。

すると、
開け放ったままの小屋の戸のむこうに
一人の白人の少年が現れ、逃亡者たちをそっと眺めます。

その少年の視線に気がつくと、
それまでずっと無表情だったサウルが
はじめて笑みを浮かべます。
無垢ともいえるとても安らぎに満ちた美しい微笑みです。

少年は弾かれたように森の中を駆け出します。
カメラはいつの間にかサウルから少年へと憑依しています。
まるでサウルの主役としての役目が終わったかのように。
カメラの眼とは、我々の眼でありながら、
彼を見守っていた天使か死神の視線だったのでしょうか。

少年はナチスの追跡隊と鉢合わせし、
叫び声を上げそうになるところを口を塞がれ、
再び森へと放たれます。

追跡隊が森の奥へと消え、
銃撃の音が響き、サウル達が射殺されたことを暗示します。

少年がまるで野ウサギのように森の奥へと消えると、
物語は幕を閉じます。


本作はカンヌ国際映画祭にてグランプリを受賞しています。

ご興味を抱かれた方は是非。

映画「サウルの息子」公式サイト
http://www.finefilms.co.jp/saul/