nakaji art

我が心と身体が捉えた美について

2016年02月

毎年のことなのですが、
冬から春にかけての、
まだ寒い日が続きながらも
ときどき春の訪れを予感させるような陽気の
よく晴れた日に
公園の陽だまりで独りそっと聴きたくなる
そんな歌声があります。

阿部芙蓉美さん。

彼女の澄んだ歌声は冬の空気のように透明に澄んでいて、
春の風のようにふわりとあたたかい。

芙蓉美さんの「声」と出遇ったのは、
荒川良々さんと中谷美紀さんの共演していたハウスメイトのCMでした。
新たな街に引っ越してきた中谷さんが、ふと「好きだったのにな、あの街」とつぶやいて
かつて暮らした街を懐かしむというシチュエーションのBGMとして
「開け放つ窓」という曲が使用されていました。

 

そのそっと囁くような、切なくも温かい歌声に一瞬で心を奪われました。
今まで耳にしたことのない声でした。
決して声を張り上げなくても、
歌というのは聴く人の心にちゃんと響くものなのだと新鮮な驚きを感じました。

その声の持ち主こそ、阿部芙蓉美さんだったのです。

「開け放つ窓」もこの時季にぴったりですが、
「沈黙の恋人」という曲も春の空気に合う素敵な曲です。
芙蓉美さんの歌詞がきらきらと瑞々しい。


ご興味を抱かれた方は是非。

阿部芙蓉美さんのWebサイト
http://www.abefuyumi.com


ブルーズ
阿部芙蓉美
FOR LIFE MUSIC ENTERTAINMENT,INC(PC)(M)
2008-04-30


沈黙の恋人
阿部芙蓉美
SPACE SHOWER MUSIC
2012-03-07

町
阿部芙蓉美
フォーライフミュージックエンタテインメント
2011-08-24


 

映画『サウルの息子』 ポスター ヒューマントラスト 有楽町


ヒューマントラストシネマ有楽町にて鑑賞致しました。

以下、本編のネタばれを含みますので、
まだご覧になっていない方はご注意ください。


冒頭で「ゾンダーコマンド」についての説明があります。
「ゾンダーコマンド」とは、ナチスの強制収容所で主にガス室送りとなった囚人達の遺体の処理や金品の回収を任された特殊部隊です。囚人達の中から選抜され、彼等自身もやがて殺される運命にあります。

最初のシーンはいきなりピンボケした映像から幕を開けます。
木立の緑がぼんやりと見え、どこかの道を映しているらしい映像と無音の状態が少し長めに続きます。
観ている側は当然「おや?」と思い、やがて居心地が悪くなり始めます。

すると足音とともに画面の奥から一人の男が歩いてきて、
カメラは男の顔にフォーカスします。

その瞬間からまるでカメラがその男、サウルに憑依したがごとく
本編ラスト近くまで彼の正面と背後をひたすら中心に据えて映し続けることになります。

それは主人公サウル・アウスランダー(=Auslanderとはドイツ語で異国人の意味。彼の素性は明かされることなく謎のままなので、まさにその名が示すとおりと言えます)の視点であり、また我々の視点でもあります。

周囲の光景はぼやけ、サウルの動きに合わせてカメラがブレることもしばしばあり、
サウルの視界以上には画面の広がりもないために、彼の視界の外で何が起きているのか鑑賞者が考え、理解しながら視聴せざるを得ません。
観ているうちにかなりのストレスを感じると思います。
しかし、これこそが監督の狙いなわけですね。

静寂とピンボケから始まった映像はサウルという1人の男の肉体を得て、
途端に喧騒の中に観る者を放り込みます。

ドイツ語を中心とした東欧の言語での人々の嘆きが飛び交い、足音が響き、
その周りを牧羊犬のごとく目付き鋭く見張り、動き回るサウル。

やがて、
人々は身包みを剥がされ、「シャワー室」へと追い立てられます。
泣き叫ぶ人々の声。
人々が脱いで吊していった衣服から慣れた手つきで金品を漁り、
奪い取っていくサウルをはじめとするゾンダーコマンド達。
重い音とともに閉じられる鉄の扉。
その扉の傍に立ち、うつむくサウル。
やがて扉の奥で悲鳴が絶叫に変わり、必死に扉を叩く音が虚しく響き渡り、
毒ガスが噴射されたことが分かります。

まるでサウルが目を閉じて意識を切ったがごとくのしばしの暗転の後、
カメラはガス室内でゴミの山のように積み上がった遺体を処理し、
黙々と床を磨くサウルの背中を映し続けます。

サウルにピントが合っているために周囲はぼんやりとしか映りませんが、それがかえって観る者の想像を掻き立て、さらに床を磨く生々しい音に慄然とさせられます。まさに人間が地上に具現化した地獄の様相。

その作業の最中にサウルがふと背後を振り返る。
今までピンぼけだった視界が急に焦点を結びます。
毒ガスで死にきれなかった一人の少年が苦しそうに喘いでいます。
やがて、ナチスの医師が駆けつけ、気道を塞いで少年の息の根を止め、
「解剖しろ」の一言を残してその場を去ります。

サウルはその少年が自らの「息子」であることに気がつきます。

そこからはまるで気がふれたがごとく、
「息子」をユダヤ式の葬儀で弔いたいと収容所内をラビ(ユダヤ教の聖職者)を探して駆け回るサウルの姿が映し続けられます。

それと並行して彼の周囲では、ゾンダーコマンド達の反乱計画が進行していきます。
サウルもそのメンバーの一人にはなっているのですが、「息子」の葬儀にこだわるあまり上の空です。

仲間の女性がくすねた火薬を受け取りに行っても、ラビを探すのに忙しく、どこかに落としてきてしまう始末。

解剖役のユダヤ人医師に頼み込んで解剖を免れた「息子」の遺体を自らの寝床に運び込むサウルに仲間達は呆れ、そのうちの一人からは「お前には息子などいない。死者を持ち込むな」と非難されます。

やがてゾンダーコマンド達による反乱が勃発しても、
サウルは戦闘に加わるわけではなく、
ただひたすらに銃弾の飛び交う中を
「息子」の遺体を抱えて逃げ続けます。

最初のうち、
私はサウルが実の息子を弔うために奔走しているのだとばかり思って観ていました。

しかし、自らの命の危険も省みずに「息子」の葬儀のために
無謀ともいえる行動を繰り返すサウルの姿を見続けているうちに、
献身的な父親というよりは、
実在しない「息子」に執着する精神的に病んでしまった男に思えてきました。

遺体の少年は彼の息子などではなく、
そもそも「息子」など実は存在しないのではないかという
疑念が生じてきます。

では、サウルにとっての「息子」とは何なのか?
死んだ「息子」を弔うという行為にどういう意味がこめられているのか?

収容所へと送られてくる人間達を次々とガス室へ送り、金品を収奪し、
その遺体を「部品」と称してゴミのように焼却し、その灰をシャベルで河に撒くということが
彼に課せられた日常です。
その極限状態にあって、
自らの信仰に基づいた儀式で死者を一人の人間として弔うということを
彼の心が本能的に欲していたということではないかと私は考えます。

つまり、
サウルにとっての「息子」とは、
自身が心を持った人間であることを見失わないための
「人間性の象徴」だったのではないでしょうか。

サウルは結局、「息子」の死を弔うことを果たせぬまま
反乱を起こしたゾンダーコマンド達と逃げ続け、
河を渡った際に溺れかけ、
これまで頑なに手放すことのなかった「息子」を
流してしまいます。

憔悴しきって仲間たちと森の中を歩き続け、
ようやく辿り着いた小屋で休憩をとります。

すると、
開け放ったままの小屋の戸のむこうに
一人の白人の少年が現れ、逃亡者たちをそっと眺めます。

その少年の視線に気がつくと、
それまでずっと無表情だったサウルが
はじめて笑みを浮かべます。
無垢ともいえるとても安らぎに満ちた美しい微笑みです。

少年は弾かれたように森の中を駆け出します。
カメラはいつの間にかサウルから少年へと憑依しています。
まるでサウルの主役としての役目が終わったかのように。
カメラの眼とは、我々の眼でありながら、
彼を見守っていた天使か死神の視線だったのでしょうか。

少年はナチスの追跡隊と鉢合わせし、
叫び声を上げそうになるところを口を塞がれ、
再び森へと放たれます。

追跡隊が森の奥へと消え、
銃撃の音が響き、サウル達が射殺されたことを暗示します。

少年がまるで野ウサギのように森の奥へと消えると、
物語は幕を閉じます。


本作はカンヌ国際映画祭にてグランプリを受賞しています。

ご興味を抱かれた方は是非。

映画「サウルの息子」公式サイト
http://www.finefilms.co.jp/saul/

行ってまいりました。

天野喜孝展 進化するファンタジー 有楽町マリオン 入口


少年の頃に夢中になってプレイしたドラクエと双璧をなすロールプレイングゲーム、
「Final Fantasy(ファイナルファンタジー)」の世界が原画で堪能できるとあって入場前から興奮気味に。

しかも、展示の撮影は自由(ただし、フラッシュはNGです)。

テレビの前でコントローラーを握りしめていた幼き日の自分の記憶がふとよみがえり、
懐かしいやら切ないやらで時間の許す限り堪能してまいりました。

大人になって改めて天野喜孝氏の水彩画と直に向き合うと、
まずその色彩の透明感と鮮やかさに目を奪われます。

その技法も躍動感のある画面のインパクトから一見大胆に着彩しているように錯覚してしまいますが、
絵に接近してよく観ると、水彩特有の滲みや塗り重ねを巧みに使い分けて描画していることがわかります。
あの幻想的な画面は実に緻密な塗り重ねと絶妙な色彩の配置によって形成されているのですね。

肌の色をあえて塗らずに白く残し、繊細な描線によって表現された人物画は
「線と色彩の芸術」である日本の浮世絵を想起させます。

天野氏の色彩感覚が素晴らしいのは、
人物の身に着ける装身具や周囲を飛び交う小型のモンスターなどにあえてヴィヴィッドな原色を施すことで、画面全体を非常に華やかで躍動感に溢れたものにしている点にあると勝手に思っております。

それでいて、
「タイムボカン」や「ガッチャマン」などで知られるように、
キャラクター造形力も抜群に優れています。

今回の展覧会では、会場は決して広くないながらも、天野氏のデビュー当時から最新の作品までを網羅しており、その軌跡を辿ることができる構成となっています。

さて、能書きはこの辺にしまして、
以下が展示の様子です。

入口を入るとすぐに目に飛び込んでくるシルクスクリーンの作品。
天野喜孝展 進化するファンタジー   シルクスクリーン ドロンジョ

天野喜孝展 進化するファンタジー ガッチャマン シルクスクリーン

キャシャーンからお気に入りの一枚。
瞳を閉じた女性の神秘的な表情と着ている服のデザインが素敵です。
思わずこの絵のポストカードを会場外のグッズ売場で見つけて買ってしまいました。
天野喜孝展 進化するファンタジー   キャシャーン


天野喜孝展 進化するファンタジー   ガッチャマン


天野喜孝展 進化するファンタジー ヤッターマン


天野氏の描く女性は妖艶でいて、コケティッシュ。
それでいて、いやらしさはなく、気品が感じられます。
子供の頃はそんなこと微塵も考えることなく、アニメを楽しんでいましたが。
天野喜孝展 進化するファンタジー タイムボカン ドロンジョ


ファイナルファンタジー Iのメインヴィジュアル
天野喜孝展 進化するファンタジー   ファイナルファンタジー


ファイナルファンタジーII
剣の鮮やかな赤と透明感のある服の水色、バンダナのオレンジやブラックが響き合っています。
天野喜孝展 進化するファンタジー   ファイナルファンタジー2


こちらは、IIIですね。
ファミコンのカセットを思い出します。
天野喜孝展 進化するファンタジー   ファイナルファンタジー3 メイン


さらにIIIから、魔導士ザンデ。
ブラックとイエローが美しい。腰に付けられた装身具の赤が良いアクセントになっています。
天野喜孝展 進化するファンタジー   ザンデ


アーリマン。
天野喜孝展 進化するファンタジー   アーリマン


水墨画のような大胆かつ力強い筆致で描かれた召還獣オーディンの勇壮な姿。
天野喜孝展 進化するファンタジー   オーディン


オクトマンモス。
尖ったイカのような頭に鮮やかなオレンジとブルーの色彩が美しい。
天野喜孝展 進化するファンタジー オクトマンモス

こちらはVに登場したエクスデス。
天野喜孝展 進化するファンタジー   エクスデス


このパッケージイラスト、好きでした。
天野喜孝展 進化するファンタジー   ファイナルファンタジー6

躍動感に溢れた構図。
魔導アーマーのブラックとティナの服の赤が響き合う。
天野喜孝展 進化するファンタジー 魔導アーマー


こちらはVII。天野氏の描くクラウドとエアリスが新鮮です。
天野喜孝展 進化するファンタジー   ファイナルファンタジー7


VIより、ケフカ。
天野喜孝展 進化するファンタジー ファイナルファンタジー6 ケフカ


こちらはVIII。シンプルな描線が洗練されています。
天野喜孝展 進化するファンタジー ファイナルファンタジー8


天野喜孝展 進化するファンタジー   ファイナルファンタジー9


IIに登場したラミア。妖艶です。
天野喜孝展 進化するファンタジー ファイナルファンタジー2 ラミア


XIIIのヒロインも天野氏が描くとどこか憂いを秘めた美女に。
天野喜孝展 進化するファンタジー   ライトニング


今回の展覧会場では懐かしい発売当時のゲームのパッケージも合わせて展示されています。
天野喜孝展 進化するファンタジー   ゲームのパッケージ

こちらは「EVE」と名付けられた立体作品。
天野喜孝展 進化するファンタジー   立体作品《EVE》


「Candy Girl」という作品群。
画材に用いられた自動車用の塗料がポップでキュートな少女達の姿を描き出しています。
幻想的な水彩画とは違った魅力があります。
天野喜孝展 進化するファンタジー 《Candy Girl》その2


天野喜孝展 進化するファンタジー  《Candy Girl》その1


野菜の妖精達のアニメーション。「N.Y.SALAD」の原画も展示されていました。
天野喜孝展 進化するファンタジー  N.Y.SALAD


出口付近には、デヴィッド・ボウイとのコラボ作品も。
DSC_2569



ご興味を抱かれた方は是非。

「天野喜孝展 進化するファンタジー」特設サイト
http://www.amano-exhibition.jp



本日は少し真面目な投稿です。

現在、六本木の森アーツセンターギャラリーにて
「フェルメールとレンブラント展」が開催中であり、
さらに今年の3月1日から上野の国立西洋美術館にて
「カラヴァッジョ展」が開催されることに合わせて、

二大巨匠の絵画技法の違いを知っていただくことで
読者の皆様により美術鑑賞を楽しんで頂くべく、

『カラヴァッジョとレンブラントの「光と闇」』

と題して、
学術的な考察をチョコっと綴っておきたいと思います。

ただ、これは私の極めて個人的な視点による比較対照(独断と偏見)ですので、
決してこれにとらわれず、
ご自身の眼と心で「美」をご堪能ください。
あくまで美術鑑賞の際の一助となれば幸いでございます。



カラヴァッジョとレンブラントの「光と闇」


本論ではカラヴァッジョ作《聖マタイの召命》とレンブラント作《63歳の自画像》を選び、
それぞれの様式的な違いを当時の芸術的・社会的な背景と関係づけ以下に論じる。

カラヴァッジョの描画技法
ミケランジェロ・メリージ、通称カラヴァッジョ(1571〜1610)は1571年にミラノで生を受け、1592年にはローマに移り住む。当時のローマはプロテスタントに対する反宗教改革の気運に湧き、多くの芸術家が集っていた。カラヴァッジョは徐々に頭角を現し、カラヴァッジョ様式と後に呼ばれる写実性と強烈な明暗対比を融合した絵画技法を確立した。その技法を極めて効果的に用いた作例が《聖マタイの召命》である。当時の賭博場を想起させる薄暗い部屋の戸口にキリストと思しき男が立ち、賭事に耽る男達の一人を指し示す。その頭上から一条の強烈な光が画面を横切り、世俗の闇を切り裂く。一見すると風俗画にしか見えないその画風はときとして宗教画としてのデコールムに欠け、依頼主であった教会から受け取りを拒否されることもあった。

レンブラントの描画技法
レンブラント・ファン・レイン(1606〜1669)は1606年、スペインから独立する間際のオランダ、ライデンに生を受けた。宗教画が偶像崇拝として禁じられるプロテスタントの支配する土地にあって、レンブラントは富裕な商工業者を主な顧客に工房を設立して量産した風俗画や肖像画を売り捌いた。バロックとカラヴァッジョ様式を昇華させたその画風は市民に広く受け入れられ、名声と富を獲得した。《夜警》はその頂点ともいえる大作であるが、その頃から妻の病などの度重なる不幸がレンブラントを襲う。愛する者を失い、浪費癖が祟って借金が膨れ上がり、まさに晩年は不幸のどん底であった。その最晩年に描かれたのが《63歳の自画像》である。かつて「光と闇の魔術師」と謳われた明暗を対比させた劇的な画面はなりを潜め、闇を淡く照らすような弱々しい光と荒い筆致が度重なる人生の不幸に打ちひしがれ、どこか諦観を感じさせる画家自身の内面を描き出している。

両者の描く「光と闇」の違い
カラヴァッジョの描く「光と闇」は、その強烈な対比により劇的な効果を画面に与えることに主眼が置かれている。世俗に塗れた民衆の日常を神の奇跡を象徴する光と闇の演出によって非日常的な瞬間に変容させるのである。それはまさにカトリック教会にとって、対抗宗教改革の理念に適うものであった。
一方でレンブラントが晩年に描いた自画像に宿る「光と闇」は、カラヴァッジョに見られるような強烈な明暗の対比は微塵も見られない。淡い光は極めて静謐かつ内省的であり、画面全体から滲み出てくるかのようである。画布に描き止める色彩と明暗もいつしか外見的な効果を狙うことを放棄し、虚飾を排した内面の「光と闇」を描き出すことに終始している。


ご興味を抱かれた方は是非。

「カラヴァッジョ展」特設サイト
http://caravaggio.jp/index.html

「フェルメールとレンブラント展」特設サイト
http://www.tbs.co.jp/vermeer2016/


この度、パリの美術館案内をAmazon Kindleにて出版致しました。
パリ旅行のお供に是非。




下記YouTubeサイトにて本の紹介動画も公開中です。

行ってまいりました。

フェルメールとレンブラント展 入口 ポスター

メトロポリタン美術館所蔵の《水差しを持つ女》が初来日ということで、
今回のお目当てはやはりというか、当然ながらフェルメール。

閉館の1時間前にギャラリーへとたどり着くと、
展示されている17世紀オランダ絵画の変遷を横目に見ながら
一直線に《水差しを持つ女》へと向かいます。

展示室内は空いていました。

《水差しを持つ女》の前にも数人の観覧者が立っているくらいで、
正面の立ち位置から心行くまでじっくり観ることができました。

フェルメールの作品はポスターや画集のイメージから色彩が鮮やかな印象があるのですが、
実物はいくぶん彩度の落ちた暗い色彩の作品が多いです。

サイズも小さいので、傍でじっくり観たいところです。

ひと目見て感じるのは、
画面に宿るフェルメール特有の淡い光と静謐。
フェルメール・ブルーと呼ばれるラピスラズリの塗られたスカートと響き合う
上着のイエロー。
テーブルに敷かれたタペストリーのくすんだ赤。
シンプルな構図と色彩の配置は安定しています。

さらに細部をじっくりと観ていくと、
フェルメールという画家がいかに丹念に作品を描いていたかが解り、
観る者の心をとらえます。

女性の被る白い頭巾に落ちる光のグラデーションの美しさは言うに及ばず、
窓をつかむ女性の手がガラスのむこうに歪んで映っていたり、
銀メッキの洗面器の底がテーブルに敷かれた赤いタペストリーの模様を細かく反射していたりと、
見るごとに新たな発見があり、観覧者の目をとらえて離しません。

何気ない日常の風景が画家の眼と手を通すと、
何故これほどまでに神秘的かつ静謐に満ちた世界へと変貌を遂げるのか。

フェルメールの絵の魅力はまさにそこにあります。

さて、
《水差しを持つ女》を堪能した後は
もうひとつのお目当てであるレンブラントの作品へ。

出口に近い展示室に
「レンブラントとレンブラント派」として
まとめて展示されていました。

レンブラント作の大作としては一点のみ。
メトロポリタン所蔵の《ベローナ》。

歴史画の大家としては鎧の金属の質感はお手の物。
武装した戦いの女神を描いているのですが、
その表情はどこか穏やかです。

私が目を奪われたのは、
女神の持つ盾に浮かび上がるメデューサの
嘆きともとれる表情です。

シンプルかつ素早い筆致でハイライトを入れることで
金属の質感とメデューサの頭部で波打つ蛇の鱗までを
巧みに表現していました。

そうこうするうちに、
閉館まで残り20分の館内アナウンスが。

先ほど通り過ぎた絵画を入口まで戻りつつ
ササッと鑑賞してまいりました。

最後はグッズ販売コーナーにて、
フェルメールとレンブラント作品のポストカード(1枚150円)を購入。
IMG_20160211_094613


作品数が少なく、
観るべき傑作も多くはありませんが、
フェルメールとレンブラントという2人の天才を軸に
17世紀オランダ黄金時代の絵画の変遷を辿ることのできる展覧会でした。

ご興味を抱かれた方は是非。

「フェルメールとレンブラント展」特設サイト
http://www.tbs.co.jp/vermeer2016/


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